闇夜に包まれた城壁の中は、まるで無限に続くかのような漆黒が敷かれていた。
気を抜けば暗闇に吸い込まれてしまいそうな程に不気味な静寂が佇み、命の気配が、いや、時間の気配すら微塵も無い。これはまるで “ 死んでいる ” と言うに相応しい。唯一の救いであろう、刳り抜いたように作られた小窓から月明かりが差し込み、“ ぽつ ”、“ ぽつ ”と暗闇を途切っていた。
そんな死の回廊に小さな足音が響く。
足音は時折立ち止まりながら、二、三度叩くような音が響き、また進み、そしてゆっくりゆっくりと進行を続けていく。そうして、やがて月明かりの中へ姿を現したのはログリアである。差し込む明かりを頼りに進んで来たのであろうか、暗闇に入るとログリアは両手で壁を伝いながら、手探りつつ慎重に歩を進めていた。
そんな少女の首筋を、不意に血生臭い風が撫でる。ログリアは大きく肩を震わせると、暗闇に目を凝らして辺りを注意深く見渡す。だが、何もいない。念の為、暫く身動きを止めて闇に潜んでいると、また、先程と同じように生臭い風が吹き抜けて往った。少女から安堵の息が洩れる。ログリアは一度深く息を吸ってから、再び慎重に、一歩、二歩、三歩、そして次の一歩を踏み出そうとした時である。
ふいに、目の前の月明かりが消えたのだ。
どうしたことであろうか、少女は再び目を凝らして“ ぐるり ”と辺りを見渡すも、やはり月明かりが消えている。いや、後ろには依然穏やかな明かりが差し込んでいるのだが、正確には少女の前方の明かりだけが忽然と消えたのだ。
困惑に小首を傾げ、ログリアがもう一度辺りを確認しようとしたその瞬間、頭上に生臭い風がかかった。硬直する少女。そんな少女の頭上にお構い無しに吹きかかる生臭い風と共に、次いで“ どろり ”とした生温かい液体が垂れた。ログリアの頬を伝ったものは 、涎であった。それに体を支えきれない程に震え出した足へと、慌てて拳を振り下ろす。そして、次第に暗闇に慣れてきた眼をゆっくりと上げて行くと、すぐ目の前に、そう、拳ひとつ分程しかない距離に、一際濃い闇の輪郭が浮かび上がってきたのだ。身の丈三尺はある躯、鬼のように隆起した顔相、闇を塗り込めたかのように漆黒の眼―――――これは、まさか。
少女が悲鳴を上げかけた刹那、後ろから何者かに口を塞がれたかと思うや、裂けんばかりに獣歯を剥き出して咆哮しようとしたフィルボルグの喉元横一線に鋭い光が走った。
暫くの間。
僅かな硬直後、“ すぅ ”と音もなく異形の首が横にずれると、床へと静かに転がり落ちたのである。一瞬の出来事に愕然と硬まり続けるログリア。震えたまま鉛のように床へと縫いついた足を引き剥がされるように、ログリアは鷲掴まれた腕ごと近くの部屋に引っ張り入れられた。壁にひとつだけ開けられた窓からは月明かりが差し込み、年季の入った木椅子がひとつだけの閑散とした部屋―――もとは見張りをする兵士の休憩室であったのだろうか。古びた音を出して木戸が締まる。その上に閂を掛けてから、何者かは溜め息を吐いた。
「“ 帰れ ”と言った筈だが」
聞き覚えのある低く凛々しい声が響いた。それにようやく我に返ったログリアが顔を上げると、そこに居たのは、昼間砦の前でも一度少女を助けてくれた小汚いマントの男であったのだ。少女は力無く震える足を床へと解放した。見知った人間を見て安心したからか、九死に一生を得たからか、今の少女には両方であろう。それを男は呆れたように見ながら、
「まさか、その若さで死にたい訳ではなかろう。では何の為に来たのだ?」
ログリアは気付かれぬように足を叩きながらも、小さく答えた。
「ぼ、亡霊の正体を確かめに……」
それに男は、“ ああ、またか ”と、うんざりしたように大きな溜め息を吐く。
「全く、人の興味と言うものは手に負えんものだな。君で十五人目だ、そう言ってこの砦に入り込んだ者は」
男の声には怒気が含まれている。少女はそれに慌てて、
「い、いいえ! 私は教術院の者です! それで……」
「教術院?」
“ では ”と、男は少女の顔を覗き込み、
「院長殿の命で来られたのか?」
「は、はい」
「院長殿が君に一人でか?」
「そ、そうです」
「……分からん、どういう事だ。私は何も聞いておらんのだが」
腕を組みながら考え込む男。まるで“ 院長 ”を知っているかのような、いや、何より “ 亡霊 ”の噂を知っている上、幾日も“ ここ ”に居るかのような口振りのこの男は一体何者なのであろう。汚らしい容貌を抑えて余りある常人ならざる恐ろしい威圧感。見えぬ剣先は一瞬の間も無く化け物達を葬り去る異様な強さ。
男は時折、“ あの方は何を考えておられるのだ ”、“ どういうつもりで ”などと洩らしながら部屋の中を“ うろうろ ”と歩き廻っていたが、やがて、暫くして足を止めた。
「仕方がない、亡霊の件に関しては私から院長殿に伝えよう。とにかく君は帰りなさい。ただし、日が登り朝が訪れてからだ」
「い、いやです!」
ログリアは間髪を入れずに首を横へ降る。それに男は眉根を寄せて少女を鋭く見やると、
「駄目だ、帰りなさい。何度も言わせるな」
真正面から射るような冷たい眼に、ログリアは息を詰まらせた。そんな少女を、少女の震えの止まらない足を静かに見据えながら男は続ける。
「何も知らぬ“ 一般人 ”が居たのでは、足手纏いにしかならん」
「し、知ってます! 此処にはフィルボルグが沢山居ると言うことも! そ、それに活動するのは昼間だということも!」
「では何故、君は先程フィルボルグに襲われたのだ? 今は真夜中だというのに」
「そ、それは……」
“ 分かりません ”と消え入りそうな声で俯くログリアに、心底呆れたように男は溜め息を吐いた。
「君達が知っている事は、所詮、噂でしかない。実際のところ、フィルボルグ共が昼間にのみ活動するという事実は、最上階に住み着く一部に限っての話だ。砦内に住み着くフィルボルグに至っては、むしろ夜にこそ活動すると言っても良い。
―――大方、物好きが城下街の砦からでも遠眼鏡で見たのであろう。外から眺望出来るのは上の無い最上階のみだからな」
男は、“ だから帰れ ”と言わんばかりにログリアに背を向ける。月明かりに照らされた無言の背中は、もはや少女と話す事など何も無いと語っているようだ。少女は悔しさに拳を握り締めた。分かっているのであろう、男に言われた事ぐらい。まして己が一般人に等しい程に“ 無力 ”だという事ぐらい。
重い沈黙。穏やかに部屋を照らす月の光が、少女には自らの足と等しいほどの鉛のように思われた。
どのぐらいそうしていたか、やがて、悔しさで固まる少女の唇から“ ぽつり ”と、聞き取れぬ程小さな、小さな声が洩れた。それに気付いてか、男は僅かに首を動かす。
「……行かなくちゃ」
再び呟かれた声。震えながらも漏れたそれに、男は改めて体を其方へと向けた。真正面から己を凝視する眼をログリアは意を決したかのように同じく真正面から捉え返す。
「約束だから、行かなくちゃいけないんです!」
ふいに頑として張り上げられた声に、思わず目を見開く男。まるで先程までの少女のものとは思えぬ強い意志の籠る声、芯に迫る眼。しかし、見れば変わらず足の震えは収まっておらず。それを訝しげに凝視する男に構わず、ログリアは倒れ込むように床へ頭を付けた。
「貴方様は“ 只者 ”では無いとお見受け致しました。どうか、どうか私に力をお貸し下さい」
「“ 力 ”を、貸す?」
思いも寄らぬ突拍子も無い、むしろ、話のずれた懇願に、男は深々と眉間を寄せる。男は土下座する少女に冷ややかに返して、
「“ 亡霊 ”の調査にか? だからそれは……」
「そ、その件は貴方にお任せ致します」
「……なに?」
「た、確かに最初は院長様に命じられるまま、亡霊の真意を確かめに参りました」
「………」
男は、先の見えぬ話に口を噤む。それに促されるように、少女は震える声を絞り出した。
「……でも私は約束も、いえ、“ 約束こそ ”果たしに来たのです」
「………」
「は、恥知らずなお願いをしているという事は分かっています。修術士でありながら、命よりも自分の事をだなんて、でも、この機を逃してしまえば、私は、私はもう二度と此処へは来れない気がするんです。……どうか、」
途切れた声を追うように、再び床へ額をつける少女。それを男は変わらず冷ややかに見下ろし続ける。無理もなかろう。言うことは聞けない、だが助力は欲しい、それに加えて私事とくれば、この男でなくとも決して気分の良いものではないのだから。そんな男の心情も、おそらくログリアには分かっているのであろう。そうでなくば、あえて土下座などを選ぶまい。逆に男もそんな少女の心中を悟ってか、
「とにかく、顔を上げなさい」
と、嗜める。暫しの間、やがて滲む眼で射るように男を見上げた少女を、また男も冷ややかに見つめ返す。ログリアの視線は真っ直ぐと男を捉えたままで揺るが無い。未だ震える足を男が一瞥しても、少女は構わず男へ眼願し続ける。再び流れる沈黙。どれ程経っても少女の眼は真っ直ぐと男を捉えたまま意思を曲げぬと語っているようである。
折れたのは男であった。“ 負けた ”、そう言わんばかりに大きく溜め息を吐くと、男は無造作に頭を掻きながら、
「……“ 約束 ”か。よければ聞かせてくれ」
と、月明かりに照らされている木椅子を“ ぽん、ぽん ”と叩いたのだ。
予想外の返事に目を瞬かせる少女。男は、僅かに口角を緩めて頷いて見せる。それの意味をようやく解した少女は、肩の力が抜けたのか何処か安堵した面持ちで促された椅子へと腰を下ろすと、やがて、遠い思い出に立ち帰るように語り出すのであった。