「出るらしいですよ、亡霊が!」
朝の修術院の中庭に、場に似付かわしくない明るい声が響く。
見ると、出入りの商人と思しき飄々とした青年が何やら中年のシスター達と盛り上がっていた。
「だって、見たって人が何人もいますし、ほら!何て言ったか騎士団員の面倒くさがり屋!あの人なんか、実際に襲われたって言ってましたよ!」
興奮気味にまくしあげる商人にシスターの一人が鼻で笑いながら、
「ま~た、うそばっかり!騎士団員が、な~んで襲われるのさ!」
と、出鼻を挫く。もとから負けん気が強いのであろう商人は更に声を張り上げて、
「ほ、本当ですって!本人に聞いたんですから間違いないですよ!確か、フタイマ村まで買い出しを頼まれた時だって言ってたかな?廃城壁まで来たのはいいものの、昼間から遠出が面倒くさくなったらしくて、こっそり隊から離れたらしいんですよ。
あの人のことだから、夕方に用事を済ませて戻ってきた隊に後から合流すればいいやと思ったんでしょうねぇ、隠れてサボろうと変な小部屋に入ったら……、居たんですって!亡霊が!で!こう、剣がバサリと!!」
言いながら、商人は手に持っていた杖を剣に見立てて振り下ろす。と、同時にシスター達から一斉に笑い声が湧き上がった。
「な~にが“ バサリと!”だい!」
「だいたいな~んで亡霊が剣なんかもってるのよ!」
「変な小部屋っていうのも怪しいわよね~」
「それに!“ あそこ ”って確か、昼間は恐ろしい化け物がうようよしてるって噂じゃないのさ、その男はな~んで無事なのよ!」
「何より、あの有名な面倒くさがり屋って、すぐ目立ちたくて嘘ばっかりつくって話だしねぇ」
「あの嘘つきの面倒くさがりを信じてるようじゃあ、あんたも末だね!」
反論の余地もない姦しい揚げ足取りに、商人はもはや身も蓋もなく悔しそうに地団駄を踏むしかない。
「でも、もしよ?もしも本当の話でさ、退治に行けってことになったらどうする?」
ふいに、シスターの一人が不安そうに呟いた。それに話題が変わって気を取り直したのか、商人が、
「その際は是非、私を御贔屓下さいな!良い杖を沢山取り揃えてありますよ!おばさん達だって杖次第で充分亡霊退治出来るぐらいの!」
すかさず商人の頭に拳が落ちる。
「誰が“ おばさん ”だい!失礼な若造だね!」
「第一、あたしらにゃ不要な超物だよ」
「そうそう、幾ら良い杖があったって、強い精霊を呼べなけりゃ意味がないのさ」
「何より、そういう危険な仕事ならとっくに王国の騎士団に命が下されてる筈だしね」
「それもそうよね、よく考えれば教術院には“ 落ちこぼれ ”が居るって有名だし、こんなところにわざわざ頼みゃしないわよね~」
「でもさ、騎士団付きの王国術士様、もうかなりのお年だそうよ? 亡霊どころじゃないでしょ~。此処何十年も新たに選ばれた術士は一人もいないし、どうするのかねぇ」
「いいわね~、選ばれてみたいもんだよ、王国最高の術士にさ!」
「あっはっはっ! な~に寝言ほざいてんだい! あれは最低でも同時に二つも精霊呼べなけりゃ選ばれないって話しじゃないか! あたしらや其処ら辺の術士じゃあ、絶対に無理ってもんだ!」
「まあ、“ 精霊騎士 ”にでも成れれば話は別だろうけどねぇ」
「“ 精霊騎士 ”って、あの伝承の?」
不意に割って入ったのは商人である。それにシスターの一人が得意気に鼻を膨らませて、
「そ、光の精霊に選ばれた者だけが成れると云われている、あの“ 伝説の精霊騎士 ”さね」
「って言っても、今まで一人として光の精霊を呼び出せた者なんか居ないんだけどさ」
「ほんとに居るかどうかも怪しいもんよねぇ。そら、あんたが言ってる亡霊と一緒でね」
商人は小馬鹿にした視線に口の端を大きく結んだ。そんな事などお構い無しに中年女達は下品に笑い声を張り上げる。
「でもまあ、王国術士に成れなくてもさ、そんな御大層な精霊様なんか呼び出せなくてもさ、“ 落ちこぼれのログリア ”よりかは増しだろうさ」
「止めとくれよ、あんなのと比べられたら溜まったもんじゃないよ!」
「全くさね、出来が悪いだけならまだしも、ばんばん、ばんばんて、毎日うるさいったらないしね」
「ああ、あれだろ? 気持ち悪いったらねぇ?」
「そうそう、そう言えば聞いたかい? また実技試験で精霊を喚び出せなかったって噂だよ」
「なんだ、またかい? ほんと何度も何度も懲り無いねぇ。素質も無いくせに、そのくせ粘るのだけは一丁前なんだからさ」
「おお、やだやだ、いつまでもしがみ付いて見苦しいったらありゃしない! あんな薄気味悪い落ちこぼれが居たんじゃあ、教術院の株も下がる一方だよ!」
「ほんとほんと!」
清々しい青空に、歪んだ笑い声が響き渡る。中年女と言う生き物は、何故こうも醜い感情を喜んで種に出来るのか分からぬと言わんばかりの面持ちで、商人は顔を引き攣らせるばかりであった。
そんな光景を、上から見やる影がひとつ。
中庭を見下ろすように聳える建物の中から、そんな賑やかで陰険な光景を一人の少女が見るとはなし、聞くとはなしに眺めていた。まるで表情のない面持ちで、ひたすらに自身の足を叩きながら。年の頃十九、二十であろうか、肩までかかる無造作に切りそろえた髪に、麻で出来た質素な服を見に纏った姿。容姿だけを見るならば至って何処にでも居るような年相応の少女であるが、まるで無心で己の足を叩く様子は異様を通り越して、何とも不気味この上ない。
「お待たせしましたね、ログリア」
その声に、少女は叩く手を止め、握った拳を後ろ手に隠しながら慌てて部屋の中へと振り返る。そこには教術院長と思しき老齢の女性が一人、穏やかな微笑を浮かべて佇んでいた。恭しく頭を下げた少女に院長は微笑を更に綻ばせると、ゆっくりとした足取りで少女の傍らまで来るや同じく窓の外の賑やかさを眺めやる。それに釣られるようにログリアと呼ばれたおかっぱ頭の少女もまた、中庭の笑い声に目を戻した。
已然、中庭に響く楽しそうな声を、朝露を含む爽やかな風が運んできては澄み渡る青空へと消えていく。
「廃城壁の亡霊の話を聞きましたか?」
最初に切り出したのは院長である。ログリアは小さく頷いてみせた。それを確認してから院長は話を続ける。
「ただの噂好きの作り話であるのなら良いのですが……、もし本当のことであるのならば、このまま放っておいてはそのうち犠牲者が出ないとも限りません」
“ ですからログリア ”と、院長は改めて少女に向き直し、
「廃城壁へ出向き、かの亡霊の真意を確かめてはもらえませぬか?」
思い掛けぬ申し出に声を詰まらせる少女。
暫くの沈黙の後、ログリアはようやく震える声を絞り出した。
「……じ、実は私からも院長様にお願いしたいと思っておりました」
その返事に、老女は分かっていたと言わんばかりに穏やかに頷いて見せる。
「まさか、こんな形で巡ってくるとは思いもしませんでしたが―――――」
言い終わらぬうちに、乱暴な足音が響いた。何事かと振り返った院長の側へ、足音は無遠慮に近づくや声を荒らげ出した。
「亡霊を見つけたのは、この俺ですよ! 俺じゃなくて、こんな落ちこぼれに頼むだなんて何を考えているんですか!」
見ると、何やら兵士のようである。ただ、腰に差した剣の他に、その手には修術士が持つ木の杖も握っているようだが。院長は鼻息の荒い兵士姿の男へ、首を傾げて見せた。
「まあ、シーブルク。何か用があるのでしたら後からになさい。今は彼女と大事な話をしているのですから」
「ええ、ええ、聞きましたとも。この落ちこぼれに亡霊退治へ行かせるってんでしょ?」
「落ちこぼれ? とんでもないわ、彼女はいつも修術士の知識試験では一番を譲らぬ秀才なのですよ」
「何を仰る! 頭ばかりでかくたって、精霊の一つも喚べなければ落ちこぼれでしょうが! 挙句こいつは、十年もの間一度だって精霊を喚べた試しが無いっていうじゃありませんか! その点、水の精霊を自在に喚び出せる俺は、格段と違いますがね」
「器に水を満たす程度が貴方にとっての自在なのかしら、シーブルク?」
その問いかけに、兵士は真っ赤にした顔を苦々しく歪める。事実であったのだろう、飲み水を簡単に汲むには確かに便利な術ではあるが、それが何かの退治に使えるとは到底思えないのも無理はない。しかしシーブルクと呼ばれた兵士は負けじと木の杖を翳して声を張り上げる。
「全く喚べない役立たずよりは増しってもんじゃありませんか! 何より俺は修術士であるうえに、あの鬼の騎士団長率いる王国騎士団の一員なんですからね!」
「ええバルトルト騎士団長から聞いていますよ、あなたが訓練すらさぼってばかりいると。あれも中途半端、これも中途半端で、あなたはいつも面倒くさい面倒くさいとばかりぼやいているともね」
それについには“ ぐう ”の音も出なくなった男へ、院長は態とらしく大きな溜め息を洩らした。それに男は殊更と顔から湯気を出さんばかりに赤くなり、地団駄を踏むや乱暴に踵を返す。
「精霊の力も使えない落ちこぼれが向かったんじゃあ、亡霊どころか、せいぜいフィルボルグの餌になるのが関の山でしょうよ!」
荒々しく去って行く足音。それに老女は再び溜め息を洩らした。この僅かな時間でも、彼があまり優良な人間ではないらしいことが感じられたが、あげく自尊心が強く尊大であり、己の買い被りの高さときたらない。それがいつもの事であるのか、彼と僅かに話しただけでも疲れている院長の様子が見て取れる。しかし、そのどうしようもない男が亡霊を見つけて生還したというのだから世の中は分からない。
“ あの ”と聞こえた小さな声に、老女は改めて少女へ向きなおした。
「ええ、大丈夫、分かっていますよログリア。本当にいるのかどうか、あなたは、それを確かめてくれるだけで良いのです。もしも本当に人を襲う亡霊が居たのなら―――――無理をせず帰っていらっしゃい。幸い、砦内のフィルボルグは夜は動かないと聞きますし」
ふと、ログリアの顔から血の気が引いていく。紡がれた気遣いとは裏腹に。
「……すいません。本当は精霊も喚べない私なんかより、手練れの術士の方が出向いたほうが良いのに……」
「心配はいりませんよ、行こうと決めた貴女より相応しい人間はいないのですから」
「でも、もしも、もしもフィルボルグに会ったら、や、やっぱり私……」
「ログリア」
少女の言いかけた言葉を諌めるように、いや、揺らぎかけたログリアの意思を掴むように院長はその瞳の奥を見据えた。
「貴女が修術士になったのは、果たさねばならぬ約束の為でしたね」
“ 約束 ”、その言葉にであろう、ログリアは思わず出た弱音を飲み込み、俯いた視線の先で足を握りしめる。それに老女は痛々しげに目を細めた。
「この世界の命の源である精霊の力“ クバール ”。水の、火の、地の、風の、そして光のクバールと―――闇のクバール。遥か昔、この闇のクバールから生まれた邪悪がこの世界を滅ぼそうとした時、それに四精と光の精霊の加護を受けて立ち向かった勇敢な騎士がいました。彼は後に人々から“ 精霊騎士”と呼ばれ、世界の伝承となり語り継がれていますが………それはきっと、遥か昔、今の私たちと同じような状況に陥った人々の望みが作り出した“ おとぎばなし ”だったのでしょう。
そんな夢に救いを求めなければ生きていけなかった人々の気持ちが、私には分かる気がしますよ。自分たちでは太刀打ちできない強大な力、理性を失った闇のクバールの恐ろしさが現実のものとなっている今なら」
老女は、そっとログリアへ瞬き、静かに部屋の中を歩き始める。遠い昔に立ち返るように、そっと傷ついた扉を覗き込むように。
「あの日、闇のクバールに加護を受けていたモンスターと呼ばれる者達が悉く理性を失い、共に手を取り合い共存していた私達人間を襲い始めたあの日を境に、このイリーゾヘーラも随分と変わってしまいましたね。
幸い、王国の騎士団により国への侵入を防ぐことは出来ましたが、あの日以来、世界は理性を失った凶暴なモンスターが蔓延る恐ろしい場所になってしまいました。これがおとぎばなしだったらどんなに良かったことでしょうか。でも、これが今の私たちが生きる世界の現実、逃げようのない現実なのです。もしかすれば、闇のクバールの暴走はこれから起きるかもしれないさらに恐ろしいことの前触れなのかもしれません。おとぎばなしで、世界を滅ぼそうとした邪悪が生まれたように。
―――世界がこうなってしまってから、もう十年も経つでしょうか。
世界は平和を失くしたまま、あの日によって家族を、大切な者を失った者達は心に深い傷を抱えたまま、今も時間が止まっているのかもしれませんね。そして貴女も―――」
老女は一度口を噤むと、やがて少女へ言い聞かせるかのように、
「心の真っ直ぐとした、とても勇敢な子でしたね。まるで昨日の事のように覚えていますよ。身の丈以上の剣を大事そうに背中に括り付けた彼の後ろを、貴女が楽しそうに笑いながら追いかけて行く姿を……」
誰のことを言っているのであろうか、老女は懐かしむように笑み崩すと、尚も俯いたままの少女を真っ直ぐと見つめ、
「そろそろ、迷いを断ち切る頃合いなのでしょう」
老いた眼は悲しそうに少女の足へと落ちた。それに僅かに肩を震わせ、まるで隠すように足周りの服を握りしめる少女。そして、今にも泣き出してしまいそうに押し黙る。ふいに、そんな少女の足を皺がれた手が優しく撫でた。思わず顔を上げたログリアを、老女は慈しむように見つめたまま、
「過去に立ち向かい、心の枷を解くのです。貴女の為に、これから貴女の力を必要とするイリーゾヘーラの人々の為に」
その言葉を追うように、部屋の中に“ そっ ”と風が吹いた。気のせいであったのかもしれない。だが、僅かに輝きを纏ったかのように見えた風は、柔らかく少女の体を包むように巡ると、やがて音も無く静かに青空へと消えて行ったのだ。それに気付いた者は老女のみであっただろう。老女は、何かを悟った様に風の軌跡を見上げやる。
暫くの静寂。
空を仰いだまま何も語らぬ院長へ、そっとログリアは頷いた。そして静かに踵を返した少女が、気付かれぬように自分の足を二、三度叩た時、
「ログリア」
背にかけられた声にログリアが思わず振り返ると、慈愛の眼差しを浮かべた老女が穏やかに微笑みかけていたのだ。
「私には、あの頃のような貴女の素敵な笑顔が視えますよ」
唐突な予言めいた言葉。思わず困惑に口を開きかけた少女に、“ お行きなさい ”と、ただ老女は手を振って応えた。まるで、我が子を送り出す母親のように。それにログリアは困惑しながらも、促されるまま老女に一礼し部屋を後にして行く。廊下に響く足音が遠くなっていくのを聞きながら、老女は再び窓の外、遠くの景色に敷かれるように佇む廃城壁へと視線を移した。
今や人すら寄り付かぬ化け物の住処、混沌渦巻く死の砦。
「どうかあの子に、精霊の加護があらんことを……」
穏やかに祈る声が風に乗る。一体この年老いた術士は其処に、いや、あの少女に何を“ 視た ”というのであろうか。
ただ、優しいイリーゾヘーラの風のみが、全てを見守るようにそよめいているのであった。