十里程歩いた頃だ。
ようやく砦を眼前にした処で、少女は足を止めた。
人の気配が乏しくなってから幾年経つのであろうか、かつてはイリーゾヘーラを護る為に名だたる敵国に確固たる威厳を放っていた城壁が、今や薄黒い腐食を斑に蔓延らせ、気味の悪い蚕糸を所狭しと張り巡らせていた。
ふと何処から共無く聴こえてきた呻き声に、少女は顔を強張らせる。身構えながらも恐る恐る耳を澄ますと、どうやら薄暗く先の見えぬ砦の中からのようだ。
“ 人のものではない ”、直感がログリアの身を震わせた。
外はこんなにも暖かいというのに、砦の中から流れてくる風は異様な冷気を纏い、鼻を塞ぎたくなる程の血生臭さが混ざっているのだ。それが砦の外のあちらこちらに盛り上がっている得も知らぬ不気味な黒い盛り上がりを撫でるように渦を巻き、殊更この砦を淀ませている。もはや平和だった頃のあの厳かな城壁の姿は何処にも無い。
そんな光景に、ログリアの背中を冷や汗が伝った時である。砦に悲鳴が響き渡った。中からではない、何処か、もっと近くから。跳ね上がった鼓動を抑えながら、ログリアは辺りを見渡した。人だ。此処から幾らも離れていない城壁の前で人が襲われている。一方は身の丈三尺を優に越える黒緑の巨体。遠目でも分かるそれは人間ではない。その異形の姿に少女の足が揺らいだ。大きく、激しく。
音を立てんばかりに震え出した足を、ログリアは慌てて振り上げた拳でがむしゃらに叩きつけ、震える杖を握り締めながら駆け出した。けたたましい咆哮を轟かせながら化け物が爪を振り被った先で、恐怖に掠れた悲鳴が上がる。反射的に少女が走りながらも投じた杖は、“ こん ”と、小気味良い音を立てて黒緑の側頭部へ当たった。微かな衝撃に動きを止める化け物。足元に転がり落ちた軽い木音が辺りに反響する。化け物はゆっくりと首をログリアへと向けた。
「……ひ!」
悲鳴を漏らしたのは、今度はログリアであった。
黒緑の躯、鋭く突角した獣歯、鬼のように盛り上がった顔相の中に―――まるで闇を塗り込めたかのように黒く淀んだ双眼。その姿に再び震え出したログリアの足は、ついには重心を失い、華奢な体を地面へ叩きつけた。
化け物は醜悪な息を口端から漏らしながら、ゆっくりと少女の顔へと近づいて来る。震えて固まるログリアの足は、叩いても叩いても、まるで鉛を叩いているかのように少女の意思を聞かない。一歩、また一歩、近づくたびに化け物の歯の隙間という隙間からは涎が溢れ、顎を伝っては地面に零れ落ちていく。そして生唾をひとつ嚥下すると、血に飢えた化け物は耳まで裂けた口を大きく開いた。少女は思わず堅く目を瞑る。ああ、もう駄目だ、と、ログリアの頭の中に絶望が木霊した、その刹那、断末魔の叫び声が地に響き渡った。
少女のものではない。けたたましい異形の苦悶。弾かれたように瞼を開けたログリアの目に飛び込んできた光景は、あの世ではなかった。
そこには、縦真二つになった化け物の姿があったのだ。
何が起こったと言うのであろう、ログリアは“ ぽかん ”と口を開けたまま、その恐ろしい残骸を凝視する。頭上から股先まで見事二つに斬り裂かれた化け物だったものは、やがて、重力を思い出したかの様にゆっくりと左右に別れて地面へ倒れた。
舞い上がる土埃に咳き込みながらも、ログリアはその向こう―――化け物の残骸の後ろに影があることに気付いて目を細める。人であろうか、ログリアは依然警戒心をそのままに凝視していると、それに気付いてか影は手にしていた剣のようなものを腰の鞘へと仕舞い、僅かに腰を屈めて少女へと手を差し出した。
「大丈夫だったかね?」
低く凛々しい声が問いかける。あぁ、と、ログリアは安堵の息を吐いた。次いで大きく胸を撫で下ろした少女は未だ震える足を二、三度、忌々しげに叩きつけ、差し出された手を取りながら、
「あ、ありがとうございます。危ないところを……」
と、言いかけて固まった。
無理もない。次第におさまってきた土埃の中から現れた人間は、目を覆いたくなる程に汚らしい容貌をしていたのだから。少女が見上げる程の長身に擦り切れて浅黒く薄汚れたマントを頭から被り、その隙間から見える髪は脂と汚れで粘りながらも乾ききり、顔などの肌という肌も同じく汚れが茶黒く斑になっている。唯一、その声で辛うじて人間、男であることだけが判断できるだけだ。
呆気に取られている少女を立たせながら、汚いマントの男は少し離れた場所へと視線を移し、
「ご老人も怪我はないか?」
と首を傾げた。その問いの先に目をやると、先程化け物に襲われていた人間、いや、先程ログリアが道を教えた老人が腰を抜かして震えていた。“ あっ ”と、思わず声を漏らしたログリアを一瞥し、男は軽々と老人を立たせる。次いで、疎らに散らばった老人の物と思しき荷物を拾い集めて手渡しながら、
「ここはフィルボルグの巣窟だ。近寄る者は余程の愚者か腕に自信のある命知らずか……、何故このような危険な場所を通っていたのかは分からぬが、“ 今のような目 ”に会いたくなくば此処へは近付かぬことだ」
老人は怯えた顔を縦に震わせた。恐怖でか寄る年波でか震えが止まらぬ足を擦りながら、年老いた背中はゆっくりとした足取りで、また、街へと続く元来た道を戻って行く。
「あ、あの……」
少女の消え入りそうな声に、老人の姿を見送っていた男は静かに視線を下ろした。
「あ、あの方に此処の砦伝いに道をと教えたのは……」
「君も早く帰りなさい」
“ え ”とログリアは目を丸くして男を見上げる。男は、それに応えるように少女の足に視線を下した。釣られてログリアも自身の足を見れば、止まっていない。震えているのだ。化け物は倒されたというのに、未だ大きく激しく。それを慌てて叩き始めた少女に、男は静かに溜め息を吐いた。
「知らなかったのならば分かっただろう? こちら側であっても、あのようにフィルボルグが現れる。此処はもはや“ 昔の砦 ”では無い」
“ 帰りなさい ”、そう、もう一度念を押すと、男は少女に背を向け砦の中へと姿を消して行った。一人残された少女は、まるで悪戯を咎められた子供の様に首を垂れて立ち竦む。ただ、幾ら叩いても止まらない震える足を見つめながら。
「……言う事を聞いてよ……」
“ ぽつり ”と洩らした言葉に応える者は居ない。
訪れる静寂。
迫り来る夜の訪れを知らせるかのように遠くで鳥の声が間延びする。朱く染まり始めた空は、また、拳を振り上げる小さな影を照らし出す。辺りに反響する打叩音。少女は無心で自らの足に拳を振り下ろす。何度も、何度も、何度も。これを街人たちが見れば、また、気味が悪いと顔を歪めるのであろうが、今の少女には関係のないことだ。ただ我を忘れたかのように、親の仇でもあるかのように自らの足を叩きつけているのだから。
どのぐらいそうしていたであろうか。
やがて黒紫色に晴れ上がった足から滲んだ血が麻の服を染め始めると、ようやく我に返ったのか、ログリアは痛みに唇を噛みしめながら動き出した。そして、それでも尚も震え続ける自らの足を蔑み見ると、まるで逃げ帰るように夜に浸かった寂しい道を、元来た道を一人、辿り返し始めたのだった。
山の端に落ちた夕日は、暗い道に歩を刻む少女を、まるで逃げ帰るように震える足を引き摺りながら歩く少女を見つめている。吹き始めた夜の風がログリアの頬を撫でた。冷たく、笑うように。一歩、また冷風が吹いた。また一歩、冷たい風が吹く。足を戻すごとに吹きつける夜風に、少女はたまらず拳を握りしめた。負け犬、落ちこぼれ、弱虫、臆病者、そう、叩きつく風さえも罵り笑ってくるようであった。唇を噛みしめながらも再び確かめた足は震えたままである。自分ではどうすることも出来ない現実に、あらん限りの声で叫びながら拳を振り上げた。
それを、何かが止めた。目を剥いたログリアが見ると、そこには何もいない。いや、僅かだが、朧気な光のようなものを纏った風が、振り上げた拳を包み込でいたかのように見えた。気のせいであったのだろうか。ログリアは呆然と拳を下ろすと、吹き続ける夜風を見た、そんな時である。何処から共無く、“ すぅ ”と風が吹いたのだ。夜風にしては暖かく、何処か優しい匂いのする風―――
『 約束だろ 』
ふと、背中に声が聞こえた。弾かれたように後ろを、砦を振り返った先にはやはり誰もいない。気のせいか、吹き荒れる風の音だったのだろうか。呆然と目を向けた少女の彼方には、吹き荒れる夜風が闇の口をぽっかりと空けた砦の口に吸い込まれ、不気味に反響する音が響いている。気のせいであったのかもしれない。いや、気のせいであったのだろう。だが、それにログリアは何処か懐かしそうに悲しそうに目を細めた。今や人すら寄り付かぬ化け物住処、その先に。
少女は静かに視線を下ろすと、変わらず震え続けている足を二、三度叩き、引きずりながらも歩き出す。一歩、また一歩と。
混沌渦巻く死の砦に、―――――死臭漂う悍ましい廃城壁へと。