やがて、部屋の中に立ち込める薄暗さが次第に明るさを増していく。
男は遠く山の背に目を細めた。
山の輪郭をなぞるように目映い朝日が登り始めようとしている。
「そろそろだ」
言うが早いか、男は一気に扉を蹴破った。前置きも無い突然の行動開始に思わず固まるログリア。そんな少女を僅かに振り返り、“ 死ぬ気でついて来なさい ”と言うや否や、男は見る間に床を蹴って駆けて行くではないか。思わず転びそうになりながらも、少女は慌てて後を追う。疾い。遅れまいと必死に追いかける背中は、気を抜いた途端見失ってしまいそうである。だと云うのに、男は咆哮を轟かせながら飛び出してくるフィルボルグ達を、躍動させた足を止める事なく斬り退けて行くではないか。
思えば、昨日と云い昨夜と云い、この男こそ一体何者なのであろう。己の体の倍はあるであろう巨体を物ともせずに、一刀の元に斬り伏せる異様な強さ。沸き上がる疑問を張り裂けそうな肺の痛みに消されながら、ログリアはひたすらに男の背中を追いかけ続ける。
どのぐらい走っただろうか。
少女が、もはや心臓が破裂すると感じたその時、ようやく最上階を告げる日差しが見えた。先を走る背中が光の中へと消えたのに続き、ログリアも転がるように光に飛び込む。
一気に広がる視界。朝日が目映く目に刺さる。
そこには展望場へと続く回廊が、厳かに佇んでいた。ログリアは息も絶え絶えに倒れたまま、壁際一面に蔓延る数え切れぬ不気味な黒い塊に目をやる。あれは確か、城壁の外にも在ったものではないだろうか。
“ ああ、やはり最上階も化け物の巣窟なのだ ”、と、少女は改めて思った。
「よく付いて来たものだ」
ふいに掛けられた声に顔を上げたログリアは、次いで唖然と口を開いた。其処には全く息ひとつ乱れてもいない男の姿があったからであろう。一体どの様な身体をしているのか、それがさも普通だと言わんばかりの面持ちで男は手を差し出していた。驚愕に口を開けたまま、しかしログリアが反射的にその手を取った刹那―――――少女の目の横を閃光が走った。
一瞬の間。 背後に巨大な地響きが鳴った。
ログリアが引き攣るように振り向くと、そこには胴体が横真二つに成ったフィルボルグが倒れていたのである。恐らくは少女の後を追って来ていたのであろう。
硬まるログリアを他所に、男は辺りを“ ぐるり ”と見渡し、
「九名はスノリス山方面、八名は平原方面、十名は各所踊り場、残りの者は展望場と回廊を各自殲滅せよ」
言うが早いか、“ え ”と、驚き覚めやらぬログリアの前に、黒い塊から一斉と兵士達が姿を現したではないか。次の瞬間、兵士達は申し合わせたように地を蹴るや回廊から飛び出して行く。展望場に轟く咆哮。高く響き渡る金属音。彼方此方から上がる、けたたましい異様な断末魔。
何がどうなっているのであろうか。思考の容量を超えた情景。それに開けた口が閉まらぬ少女の前で、男は剣に付いた黒緑の血を振り払う。
「遅れるなよ」
言い終わらぬ内に男もまた再び駆け出した。ログリアは訳も分からぬまま、またもや慌てて転がり起きるように後を追う。
彼方此方で、狂暴に襲い掛かるフィルボルグ達に勇猛果敢に応戦する兵士達の姿。疾風の如き背中を追い掛ける少女の視界の端々で、化け物達が耳を覆いたくなる程の悲鳴を上げながら次々と鎮圧されて逝く光景が、映っては過ぎて行く。
少しもせぬ間に、息を付く間も無く辿り着いた回廊で、ようやく男は足を止めた。そこは隣村へと続く平原へ下る為の唯一の回廊である。
ログリアは肩で息を切りながら、相も変わらず涼やかに遠くを見やる男を見上げた。
訝しむように眉間に皺を寄せる男。その双眼は遥か先の曲がり角を凝視している。釣られて少女も視線の先を追う。“ 何も居ない ”、そうログリアが小首を傾げた瞬間、曲がり角からふいフィルボルグが出てきたのだ。思わず後退った少女だが、しかし何かが可笑しい事に気付いた。
見よ、まるでフィルボルグは泥酔しているかの様な足取りではないか。そして“ ふらり、ふらり ”とよろめきながらも此方へ近付いてきた化け物は、突然、“ ぴたり ”と立ち止まったかと思うや、その場に地響きを立てて倒れ込んだ。舞い上がる砂埃。黒緑の巨体は黒目を剥いたまま息絶えている。最早ただただ口を開けて唖然とし尽くすログリア。そんな少女の横で、男は大きく溜め息を吐いた。
「遅い」
“ え ”と、ログリアは男を垣間見る。しかし男の視線は、やはり回廊の先に向いたままだ。まだ他に何か居るのであろうか。ログリアが再びその視線の先へと目を凝らすと、次第におさまっていく砂埃の中に、次第に人影が浮かび上がってきたのである。
そこに居たのは、黒い、そう、頭の先から足の先まで全て黒い出で立ちの男。斬散な髪の隙間から覗く、同じく黒真珠のような細い双眼。その両腕から手先を越えて鋭利に伸びた熊手のような六本の鍵爪が、何処から見ても“ 只者 ”では無いと語っていた。
「昨夜に落合う約束だった筈だが」
そう洩らしたのは少女の傍らにいる汚らしい男だ。男は心底呆れたような冷め切った眼差しで黒い男を射る。それに黒い男は軽く笑い声を上げると、
「いやぁ、悪い悪い。ちょっと時間があったからさ、向こう村の可愛子ちゃんと“ にゃんにゃ~ん ”ってね」
悪びれなく両掌を握って猫の真似をする黒い男の首元に、風を切って刃が当たった。笑い顔のまま硬直する黒い男。“ ほう 、と、汚らしい男は剣柄に力を込めながら、
「相変わらずの良い度胸だな」
「ま、ままま待った待った! 挨拶代わりの冗談だって! じょ、う、だ、ん!」
一瞬で蒼白になった笑顔を引き攣らせ、必死に弁解する黒い男。そんな男を凝視したまま、汚らしい男は剣先を引込め、
「その件については後から“ じっくり ”と聞かせてもらおう」
“ それで? ”と、短く顎を斜くる。黒い男は心底安堵の息をひとつ吐いてから、
「粗方、部屋と云う部屋は探ってみたけど―――居なかったよ、例の“ 亡霊 ”」
「そうか」
「もしかして、本当は居ないんじゃないの? 確かな情報なのか?」
「ああ、シーブルクの話ではな」
「シーブルクって……、あの“ 面倒くさがり屋 ”か。こりゃどうも眉唾ものの匂いがしてきたなぁ」
ふと、黒い男は視線を下ろした。ようやく気付いたのであろう、汚らしい男の傍らで不安そうな面持ちを向けている少女に。黒い男は小首を傾げて見せながら、
「おや? 此方の愛らしいお嬢さんは?」
ログリアは警戒するように汚らしい男の背に隠れる。それに“ あらら、嫌われちゃったみたい ”と顔を緩ませながら“ にやにや ”する黒い男を冷たく見据えてから、汚らしい男は僅かに背の少女を見た。
「確かめたい場所がある」
ふいな提案に黒い男は頭を捻る。それを横目に何も言わずに早足で進み始めた汚らしい男の後に慌てて少女が、次いで溜め息をひとつ吐いてから黒い男が続いた。