次第に治まっていく騒がしさの中、黙々と歩き続ける汚らしい男。その背中は“ 確かめたい場所 ”を既に知っているようである。
「“ あいつ ”、堅っ苦しいでしょ」
不意にログリアは自分に掛けられたであろう声に顔を向けた。見ると、黒い男が屈託の無い笑顔で少女を覗き込んでいる。黒い男は少女と目が合うのを待っていたかのように微笑むと、
「俺はランディルフル、あ、ラディって呼んでね」
「は、はぁ」
「君の名前は?」
「え?」
「名前だよ、名前。可愛子の名前は絶対聞いとく事にしてるの、俺」
「は、はぁ……、ロ、ログリアです」
「ログリアちゃんか、いい名前だね」
本心なのかどうなのか、何処か掴み所も無く笑う男にログリアは思わず距離を取る。そんな少女を他所に、“ それにしても ”と、ランディルフルと名乗る男は声を潜め、
「大変だね、ログリアちゃんも。だって任務とは言え、こ~んな堅物と一緒だなんて。俺だったら逃げ出してるかも」
「え? あ、あの、“ 任務 ”って……」
思いも寄らぬ言葉に少女が問い返し掛けた時だ。
「“ ここ ”だ」
先を進んでいた汚らしい男の声が響いた。それにログリアと黒い男、ラディは、気が付いたように男が向けている視線の先を見る。
暫しの沈黙。当然であろう、男が“ ここだ ”と示している場所は、
「……ただの壁にしか見えないけど?」
ラディはあからさまに顔を顰め、大きく首を捻る。
「“ そうしてある ”のだ」
「どういう意味?」
「今に分かる」
言いながら、男は少女へと視線を移し、
「覚えているかね?“ 秘密基地 ”の入り口を」
弾かれたように男を凝視したのはログリアだ。
まるで男の口振りが、“ ここ ”が、この壁が秘密基地であると語っている様だからか、少女は壁の姿を佇ませる一面へと改めて意識を向けた。壁、そう、どうしようも無く唯の壁だ。しかしログリアの視線は、ゆっくりと、その壁を見定め始める。それを黙して見守る男とラディ。最早ログリアの意識は此処では無く、まるで遠い記憶に還っているかの様に唯一点、壁を射抜く様に見つめ続けている。それは薄汚れた傷であった。何か鈍器の様なもので幾度と叩かれた跡。それが何なのかは、おそらくログリアにしか解し得ないものなのかもしれない。
だが、それが引き金か、少女の遠い記憶が呻いたのであろう。
「これ……此処は硬くて壊せなかったんです」
我知らず呟きながら、ログリアは記憶の情景を少しづつ辿るように男達を越して歩き始める。それに続くのは今度は男とラディだ。
やがて壁を伝うように“ ぐるり ”と廻った後ろで少女は足を止めた。角に蔓延る不気味な蚕糸のようなもの。山の様に積まれた赤白い固まりが飛び出している黒い塊。その先には壁が在るのみで、これ以上先へは行けない様だ。
再び首を捻ったラディは、
「どうやら行き止まりみたいだけど」
「はい、“ ここ ”だった筈です」
ログリアは間髪入れずに答えると、迷わず目の前の塊に手を掛けた。それにラディは“ ぎょ ”と目を剥いた。いや、何処からどう見ても触れてはならぬと動物の本能が警鐘を鳴らすであろう塊を、一瞬の躊躇もせず、必死に動かそうとする少女の姿に驚かぬ筈があるまい。
「ちょ! ちょちょ、ちょっとちょっとログリアちゃん! それなんだか分かってる!?」
と、思わず血の気を引かせて己だけ後退りしたラディの首襟を掴み、汚らしい男は少女に制止の手を翳す。
「そういう汚い作業は、“ この男 ”の仕事だ」
止めた手をそのままに、少女は“ ぽかん ”と男を振り返った。ラディは男の発言に再び目を剥いて逃げようとするも、殺気の籠る双眼で一睨みされるや渋々と少女の前に代わり出る。“ 離れていよう、鼻が保たん ”と塊から随分と離れた男に倣い、何のことかと言わんばかりの面持ちのまま、少女も同じく後ろに下がった。
それを横目で恨みがましく見送りながらも、ラディは首周りの布で鼻から下を念入りに覆うと、次いで手の内から奇妙に粘つく黒紫色の液体を垂らし始めた。その粘着質の液体が僅かに手から離れる度に、ゆっくりと両甲の爪を動かし、まるで空気と掻き混ぜるように霧の様なものへと変えていく。なんと器用なものであろう。
やがて霧は舞い散る粉雪の様にゆっくりゆっくりと空中を漂いながら、黒い塊へと落ちていき、霧が触れたかと思うや、次々と塊は土留色の煙を燻し出しながら溶けていくのだが―――――この臭いが酷い。腐った肉が焼け爛れる臭いに混じり、この世の不快という不快な臭いを全て凝縮させたのではないかと思う程に、鼻も胸も掻き毟りたくなるような臭いなのだ。おそらくラディが使っている何かの薬の臭いも混ざっているのであろうが、とにかく酷い。
遠く離れた場所で思わず少女は鼻を押さえた。男も同じく鼻を押さえながら、
「あれはフィルボルグの屍だ」
頷きかけた少女だが、しかし少しの間の後、“ え!? ”と、ようやく意味を解したかのように裏返った声を出した。知らなかったのであろう、そうでなくばよもや年若い少女が迷わず触れられる筈が無いのだから。今頃になって慌てて赤黒く汚れた両手を服で拭う少女を目の端に、男は独り言のように淡々と続けて、
「大方、此処はフィルボルグ共の“ 墓場 ”と言ったところだろうが―――――おかしい、フィルボルグには一箇所に集まって息絶える習性など無い筈。これはまるで、“ 何か ”に誘われるまま己から此処で息絶えたかのような、………何かを拒む為にか」
「あの、」
ふと掛けられた声に、男は少女を見た。少女は窺うように男と、悪臭の中一人、何やら “ ぶつぶつ”と愚痴をこぼしながら処理を続けるラディを交互に眺めている。
「お二人はご親友なのですか?」
思い掛けぬ問いに目を丸くする男。しかし直様、苦々しく顔を歪めると、
「何故そう思うね」
「か、勘違いでしたらすいません。ただ……何処かお二人には窺うような距離が無いと言いますか、おかしな壁が無いと言うのでしょうか」
それに暫しの沈黙後、男は黒い背中を見やりながら小さく口を開いた。
「君が会いに来た者は、幼馴染だと言っていたな」
「え? は、はい」
「その言葉で表すならば、私にとっては“ 奴 ”が“ それ ”だ」
男の視線に釣られる様に、ログリアもラディへと視線を移す。幼馴染、言われれば成る程、妙に堅く威圧感の在るこの男が、ラディに対しては何処か崩れた態度を取る事も合点がいく。さらに少女は気付いたようであった。ラディを見るその眼差しには、何処か遠い昔を懐かしむ様な色合いが佇んでいると。それに男も気付いてか、僅かに咳払って見せた。
「幼少に父を亡くした私に残ったものは、この身と形見の剣、そして奴だった。あの通り巫山戯た奴だ、反りが合わない事もあったが、まあ、救われた事も少なくなかったか」
「……大切に思われているのですね」
「なに?」
照れているのか隠しているのか思わず殺気を滲ませる男に、ログリアは慌てて男の腰に差された剣へと視線を逸らした。更に、それが御形見ですか、と逸らされた話に、男は僅かに眉を潜めるも溜め息ながら首を振る。
「いや、形見の剣は小さな騎士に譲ったのだ」
「小さな……騎士?」
「ああ、まだ私が未熟な頃、毎日共に稽古に付き合ってくれた小さな友人だ」
それは偶々(たまたま)振った話ではあった。しかし何かに引っ掛かったのであろう、少女が詳しく聞き返そうと口を開きかけたより僅かに早く、男は“ 少し話が過ぎたな ” と、再び塊へと視線を戻した。問い返す機を逃したログリアもまた、何処か合点のいかぬ面持ちをラディへと向ける。
「親友かと訊いていたが」
不意な言葉に再び其方を見るログリア。男は、すでに見慣れた凛々しい面持ちに戻っていた。
「“ 腐れ縁 ”と云うやつだな」
と、“ ぶっきらぼう ”に答えた。それに残り僅かな塊を溶かしつつ、
「そりゃ無いでしょ~、こんな事までしてくれる“ 大親友 ”他にいないよ~」
と、ラディが情けない声を上げた。見ると、残すは子供一人分程の最後の一塊である。
ようやく立ち込める悪臭も弱くなったようで、男は少女に軽く頷いてから、またラディのもとへと足を戻す。それに気付かぬままラディは再び愚痴り始めて、
「全くさ、いつも嫌な仕事は俺任せなんだから……、だいたい“ 汚い仕事 ”は、って言うんなら、今のお前の方がお似合いじゃないか。全身きっったない格好でさ、まるで“ 乞食 ”だろって話……」
そこまで言い掛けてラディは固まる。
ふいに後ろから鷲掴まれた頭。蒼白になったラディの頭蓋骨が軋んでいく。
「何か不満があるようだな」
「と、ととととんでもない! 喜んでさせてもらっちゃってますよ! はい!」
慌てて青冷めた笑顔を繕うラディの頭へ、構わず徐々に徐々に力を入れ続ける男に、少女は鬼を視た。余程いつもの事であるのか、男の形相は“ 今日という今日は、もう勘弁ならん ”と言わんばかりである。頭蓋骨を粉々にされそうな恐怖に耐えながら、ラディは更に慌てて周りを見回すや、己の斜め足元を突くように指を差し、
「あ、あれ~!? こ、こ~んな処に穴が出てきた~! なんだろこの穴!? ね! ほ、ほら!」
“ その手にのるか ”と、殊更鷲掴む手に力を込めた男の足元に、座り込むように体を屈めたのはログリアである。それに気付いた男は、ようやくラディの頭から手を離した。男の指の形に陥没しているのではないかと思う程に痛む頭を抱えるラディを尻目に、男も少女の傍へと腰を屈めた。
穴だ。確かに穴がある。ようやく子供一人が這って通れる程の、小さな穴が。しかし壁角に空いたその穴は、どう言った訳か “ 向こう側 ” からも何かで塞がれているようだ。
「“ ここ ”……此処です!」
言いながら、穴を塞ぐ“ 向こう側の何か ”を再び押し始めた少女。動かない、いや、動く筈があるまい。穴から覗く、その“ 何か ”は、先程まで此方側を塞いでいたものと同じ色彩をしているのだから。
痛む頭を抑えつつ、ラディも遅れて穴を覗き込むや、
「あらら、そっちにも山積みと来たかぁ」
「毒では無理か?」
「うーん、穴を空けるぐらいなら出来るけど、空いた途端に押し潰れるだろうね」
どうしたものかと思案する男とラディ。だが、そんな事すら耳に届いていないのか、少女はひたすら尚も我を忘れたように穴を遮る屍を押し続ける。“ ここ ”が秘密基地の入り口なのだと、少女は確信したのであろう。そして、この壁を隔てた直ぐ向こうが約束の場所なのだ。それなのに、この穴を潜れば直ぐそこなのに―――――ふいに、男の手が少女を止めた。いつの間にか溢れ出た涙で“ くしゃり ”と歪んだ顔を上げた少女に、男は僅かに顔を緩めて見せた。
「下がっていなさい」
その何処か柔らかく、まるで何処か“ 大丈夫 ”と言わんばかりの促しに、暫しの沈黙の後、少女は穴からゆっくりと離れた。それを確認してから、腰に差した鞘へと手を添えた男に、
「ちょ! おま! ま、まさか!」
男がやらんとしている事に気付いてか、ラディが慌てて声を上げた、その瞬間、腰から走った閃光が壁一面に軌跡を描いたのである。一瞬後、刃が鞘へと収まる音を合図に、雪崩れるように一気に壁が、壁に積まれるように折り重なった黒い塊が崩れ落ちた。
唖然とするラディとログリア。
ログリアは、何度目になるのであろう“ 何が起こったのか良く理解出来ぬ ”と言う面持ちで。ラディは、“ ああ、こいつ、やっちまった ”と言う面持ちで。次いで呆れに首を横振りながら、
「知らないからね~。ボルじいさん、“ 砦を壊したら許さんぞ ”って、すっごい顔してたのに」
「仕方あるまい」
さして気に留めず返す男に、またラディは呆れて首を振った。
「あ、あれは………」
ふいに呟いたのは少女だ。それに男とラディは少女の視線の先を見る。立ち込める瓦礫埃に目を凝らすと、薄暗い部屋の奥に何かが揺らめいているようだ。
思わず歩き出したログリアは、崩れ落ちた瓦礫山と屍を転びそうになりながらも必死で乗り越えていく。それに男が続き、危険があるかもしれぬと云う事を知って尚か、先陣を切って部屋へと進むログリアに感心したかのように軽く口笛を吹きながらラディが続いた。
難なく瓦礫を越え屍を越えて、薄暗い部屋に先に降り立った男とラディは、やはりと言うべきか、後から覚束ない足取りで降りてきた少女へと手を差し出す。それに ログリアは “ あ、ありがとうございます ” と、はにかみながら男の手を借りた。
男と同時に出した手を取ってもらえなかったのはラディだ。まあ無理も無いとは思うが。ラディは拗ねた様に空を掴みながら、つまらなさそうに薄暗く黴臭い部屋の中を見廻す。いつから人の気配がなかったのであろう、彼方此方に埃が溜まり、我が物顔で蚕糸のようなものが蔓延っている。崩れた一面から差し込む明かりは部屋の途中で消え、奥には闇が佇むばかり。だが、壁際の長縦には見るからに高価そうな剣や杖が置かれており、対の壁に供えてある棚にも、同じく格調高そうな装飾が施された本が所狭しと並べられている。その側に、半ばより二つに壊れた長机がひとつ。そこから落ちたのか、机の周りには見たこともないような美しく怪しい輝きを放つ宝石や首飾りが、疎らに散らばり落ちている。
「もとは宝物庫ってとこかな」
足元の宝石を軽く蹴飛ばしながら呟くラディに、
「いや、ここは」
と、男は言い掛けて、ラディの頭上へ一閃を飛ばした。硬直するラディの背後で上がる地響き。それに、その更に向こうに目を細めながら、男は剣柄を握り直す。
「ここは、―――――“ 呪物庫 ”だ」
その言葉を合図にしたかのように、闇の中から咆哮を轟かせながら飛び出してきたフィルボルグ達に走る閃光。胴体を、首を、真二つに斬り捨てられて次々と床へと地響きを上げる次から次へと、フィルボルグ達が闇の中から湧いてくるではないか。
突然の光景に、思わず立ち竦む少女の背後から響く咆哮。弾かれたように振り返ったログリアの目の前で、フィルボルグに六本の閃光が走った。悲鳴を上げる間もなく黒緑の巨体は格子状に散けるや、細切れの塊となって “ ぼとぼと ” と床へと散らばり落ちたではないか。唖然と口を開けたログリアが再び振り返ると、そこには誇らし気に口角を上げたラディの姿があった。ラディは鍵爪から黒緑の血を払い、軽々と床を蹴ると、男の背後に回り込んだフィルボルグ達の頭上へと爪を振り下ろしていく。
見る間に数を減らしていく化け物の群れ。
速い。いや、剣捌きでは男の速さに敵いはしないが、そう、身のこなしだ。まるで舞い踊るかのような、それでいて一切の無駄の無い動き。フィルボルグ達の死角から死角へと入り込んでは、時には寸分の狂いも無く急所を突き、時には六爪のもとに葬り去っていくのだ。後に残る残像に、フィルボルグ達は遅れて襲い掛かろうとしながらも思い出したかの様に倒れ込んで逝く。
そして少女が瞬きをする間に、部屋を埋め尽くさんとばかりに溢れ出て来たフィルボルグ達は、全て地に伏せる屍と化していた。なんという圧倒的な光景であろうか。ただただ唖然とし尽くす少女。
ラディは、まだまだ呻き声を響かせ続ける闇へと不敵な笑みを浮かべながら、
「そうそう、こういう多勢に無勢こそ俺の仕事。おまえはさっさと “ 突っ込み ” な」
言うが早いか、ラディは懐から怪し気な小袋を取り出すや己の頭から朱色の粉をかける。鼻を突く酸味のある匂い。おそらくフィルボルグの好む獲物の匂いが含まれているのであろう。その匂いに釣られる様に、再び闇の中からフィルボルグ達が次から次へと湧き出てきたのだ。淀んだ黒目を、ひとつ残らずラディに向けて。
餌を与えられた野良犬のように、ゆっくりと涎を垂らしながらラディへと近付いて行くフィルボルグ達。それを待ち構えるようにラディは微動だにせぬまま、傍の男へ “ にやり ” と笑ってみせた。男も同じく口角を上げて返すや少女を振り返り、
「行くぞ」
「は、はい!」
闇の中へと駆け出した男に慌てて続く少女の視界に、
「ええ!? ログリアちゃんも!?」
と、愕然と肩を下ろして落ち込むラディ目掛けて一斉に襲い掛かるフィルボルグ達が映った。