遠くで鳥の囀りが聞こえる。緩るい光を纏った空気が部屋の中に立ち込め始めていた。
そんな中で物音を立てずに剣の手入れをしているのは、汚らしいマントの男である。おそらく一睡もしなかったのであろう、しかし男はそんな様子など微塵も感じさせぬ手付きで、黙々と刀身を磨いていく。見惚れる程の手際の良さ、まるで一日も欠かす事なく日常と化しているかのような、手慣れた動き。
ふと、男の手から研ぎ石が滑り落ちた。“ ことり ”と僅かな音を出して転がった石へと手を伸ばしかけて、男は目を上げる。視線を感じたのであろう。
「起きていたのか」
その言葉に返事は無い。何か違和感に気付いたのであろう、男は改めて視線のもと、少女を垣間見た。確かに少女ではある。間違いは無い。だが、何かが違う。目付きだ。まるで昨日の少女のものではない。瞬きもしない異様な目付き。それを、さも不機嫌そうに釣り上げ、男を“ じっ ”と凝視している。
「誰だ」
ふいに口を開いたのは訝しむように眼を細めた男だ。それに少女、いや、少女の体に居る“ 何者 ”かもぎこちなく声を出した。
『死にてぇのか』
それに男は更に目を細める。少女の声では無い、まして男の声。体こそ少女のものではあるが、これは“ 全くの別人 ”だ。奇妙な光景に出方を伺う男を、“ 何者か ”は変わらず釣り上げた眼で射るように睨み付けたまま、
『忠告だ、“ これ ”は“ あんた ”にだってどうすることも出来ねぇよ』
“ これ ” とは一体何の事か、いや、それよりも何処か男を知っているかの様な物言い。それに男は記憶に立つ漣を感じた。その漣を手繰り寄せる為にか、敢えて男は素知らず返す。
「どういう意味だ?」
『いいから帰れ、あんたに、こんな“ 弱虫 ”に何が出来ると思ってやがんだ』
「こんな? 知っているのか、この少女を」
『……女は元来、弱虫だって相場が決まってんだ』
「なに?」
男は小さく肩を震わせた。それに“ 何者か ”は、憚ることなく顔を歪める。
『おい、何笑ってやがんだ』
「いや、その“ 弱虫 ”が、震える足を叩きながら“ ここ ”まで来たのだと思ったらな」
『………』
「強さとは力ではない。何かを成そうとする、誰かを守ろうとする、その“ 意志の強さが力 ”なのではないか?」
その言葉に、“ 何者か ”が口を噤んだその一瞬、驚いたように目を見開いた。いや、確実に驚いたのだ。そして、ただ驚いたのではない。それは何処か、言葉にさえ出していない己の考えと違わず同じことを言われたときの、そんな予想だにしなかったであろう驚きであったのだ。その様子を男は見逃さなかった。男は真っ直ぐと何者かを見据える。
「彼女が何の為に“ ここ ”に来たのか分かるか?」
返事は無い。だが男は構わず続けて、
「“ きみ ”に会うためだ」
弾かれたように何者かは男を見た。それを真正面から受け止める男の双眼は、漣の正体を確信したようであった。
「どうやら、私は君を知っているようだ。“ きみ ”の名は……」
『俺は知らねぇな、“ あんた ”なんて』
無意識にか、何者かは男から目を逸らすと、まるで何も言わせまいとするかのように遮り、
『“ こいつ ”を連れてさっさと帰りやがれ、取り憑かれたく無けりゃあな。いいか―――――絶対に“ 来るな ”よ』
そう念を押すように凄むと、それを最後に“ 何者か ”は眠るように瞼を閉じた。再び静まり返った部屋に、まるで何事も無かったと言わんばかりに少女の寝息が戻る。
“ 取り憑かれたく無かったら ”、その捨て台詞に男が彼方へ眼を向けた時、ゆっくりと、再び少女が瞼を開けた。少女は男の姿を見るや慌てて起き上がり、
「あ! お、おはようございます! やだ、あの、もう起きていらっしゃったんですか」
自信の無い話し方、気弱そうな面持ち―――昨日までの少女のようである。そして、まるで今しがた己の口を借りて話していた者がいたなどとは知らない様子の少女。それに男は努めて平静に応えた。
「いや、私も今目を覚ましたところだ」
“ よかった ”と呟きながら身支度を整える少女は、やはり至って普通そのものである。そんな少女を視界の隅に、男もまた、何事も無かったかのように、腰へと剣を携え直すのであった。