「私がまだ幼い頃―――――この国が平和だった頃です。私には幼馴染の男の子がいました。その幼馴染の男の子は、よく苛められていた私を庇ってくれたり、意地悪な大人達から守ってくれたり……何かあると必ず助けてくれる、とても勇敢で優しい子でした」
“ お互い孤児だという境遇のせいも在ったからかもしれませんね ”と、ログリアは陰り無く呟いた。男は複雑な境遇に眉間を寄せて頷く。それに少女は相槌を返して、
「ちょっと口は悪い子だけど、私はその子が大好きで毎日一緒に遊んでいました。よく、“ ここ ”でも遊んだものです。その頃はまだ此処にも兵士の方が沢山詰めておられましたので、見つかっては怒られたり摘み出されたりも度々でしたが、“ 秘密基地 ”に隠れれば絶対見つかることなんてありませんでしたから」
「“ 秘密基地 ”?」
男は首を傾げた。それにログリアは慌てて口を塞ぐ。誰にも洩らさぬことにしていたからか、思わぬ失言に少女は気まずそうに男を窺い見た。傾げた首をそのままに、男は何かを思い出すように目を細めながら、
「はて、そのような場所が“ 此処 ”に在っただろうか……」
まるで記憶の糸を手繰り寄せあぐねている様子の男。見ようによっては随分と此処―――廃城壁のことを知っているともとれるのだが、それに気付いたうえでか、ログリアは自分しか知らぬ秘め事だということに気分が良くなったのであろう。忍び寄るように男の耳元に近付くと、声が洩れぬよう“ 内緒ですよ ”と耳に手を添えた。
それに思わず男も耳を澄まし、“ ふむ ”と返すその光景は何とも滑稽極まりない。内緒も何も、真夜中の―――しかも“ 死の砦 ”でその話を聞けるものといえば、自由に夜空を吹き踊るイリーゾヘーラの風ぐらいなのだから。
しかしログリアは努めて小さな声で、
「それは、最上階にある“ 扉の無い部屋 ”なんです」
「“ 扉の無い ”……?」
また、男は繰り返した。少女は頷く。
「そこには、きらきら輝く宝石みたいなものや見た事も無い高価そうな杖や剣、綺麗な装飾が施してある珍しい本が沢山ありましたから、遊ぶにはもってこいで―――旅人だって行き交っていた最上階の部屋なのに、兵士の方に言っても誰も知らなかった部屋なんです。不思議ですよね?だから私と幼馴染の男の子は呼んでいたんです、“ 秘密基地 ”って」
“ でも、そこが何処にあったのか今ではあまり覚えていないんですが ”と、悲しそうに俯く少女に、男は頷いて見せながら、
「それで、」
と、少女へ顔を向ける。思わず近付いた顔に、少女は短く声を洩らして男から離れた。
汚ればかりに気を取られていて気付かなかったが、間近で見た男の顔はまさに眉目秀麗の言葉に相応しく、少女はふいに跳ね上がった心臓に呼吸を整えた。
男は首を傾げてログリアの顔を覗き込む。
「どうした? 顔が赤いようだが、熱でもあるのか?」
「い、いえ! 何でもありません……!」
紅潮した頬を両手で隠した少女へ、静かに風が吹いた。何処か暖かく、まるで穏やかな夜を散歩しているかのような風。釣られて外へ、夜空へと目を向けた少女の頬を、そんな風が優しく撫でる。それに少女は悲しそうに目を細め、
「……そう言えば、“ あの日 ” だけは、この風が吹いていなかったような気がします」
少女の視線の先を追うように、ゆっくりと男も夜空を見上げる。
ああ、なんと美しい空であろうか。黒い空間に遍き煌めく幾億の儚い光、朧に滲む淡い月、その身を透かして揺蕩う錦糸雲。
“ あの日 ”とは、おそらく前触れも無くこの世界の精霊の力、クバールが暴走した―――――あの日の事であろう。それを解したのは、男にとっても忘れられぬ日であったからなのかもしれない。そんな夜空を見つめながら、また、少女は“ そう、あの日 ” と言葉を紡ぎ出した。
「……あの日も、いつものように私達二人は“ 秘密基地 ”で遊んでいました。
私は綺麗な挿絵がある異国の本を絵本のように読んでいて、彼はいつも大事にしていた宝物の剣を兵士の方の見様見真似で振り回したりしていて」
訝しむように眉間に皺を寄せた男に気付き、少女は慌てて“ あ、盗んだ物ではなくて ”、と挟んだ。
「誰かに“ 貰った ”と言っていました。その子は王国の剣士になる事が夢で、いつも兵士の方が訓練しているのを眺めていましたから、多分、その時誰かに……」
“ ああ ”と男は納得する。それを確認してからログリアは続ける。
「そんないつものように遊んでいた―――――その時でした。
突然、けたたましい咆哮が砦に響き渡ったのです。驚いた私達は秘密基地から駆け出して、展望場に向かいました。
そこで見た光景は……まさに……地獄のようでした。
四肢を食い千切られて痙攣する人、腹を引き裂かれて息絶える人……辺りは一面、血の海で……」
思い出したくも無かった光景だったのであろう、そこまで言うと、少女は瞼に鮮明に蘇ってきた惨劇を打ち消すように、再び小刻みに震え出した足を叩いた。男は黙したまま見守る。いや、何を言えるであろうか、必死に過去の闇を伝えようとする、この少女に。
次第に血の気を引かせていく拳をもはや力なく足へと振り落としながらも、ログリアは再び口を開いた。
「……黒緑の化け物……フィルボルグ。沢山のフィルボルグ達が狂ったように人を襲っていたのです。今まで優しかったフィルボルグ達が、泣いていると慰めてくれたり肩車をしてくれたりもして一緒に遊んでくれた事もあった、あの心優しいフィルボルグ達が。
私は、頭の中が真っ白になりました。
何が起こっているのか分からず、その場に縫い付けられたように硬まる私へ、一斉に黒い眼が向きました。恐ろしく淀んだ瞳でした。視点の定まらない、血に飢えた瞳……。“ ぽちゃり ” と血の海に音を立てて、此方へフィルボルグが足を踏み出した瞬間、恐怖に震えて立ち竦む私の手を男の子が引っ張ったのです。それを合図にしたかのように、フィルボルグ達は一斉に私達を追いかけてきました。
私達は必死に逃げました。
思わず転んだ私の手を引きながら男の子はフィルボルグの爪を掻い潜り、安全な場所へと―――“ 秘密基地 ”へと逃げ戻りました。“ ここなら絶対安全だから ”と、泣きじゃくる私の頭を男の子が撫でてくれたのを覚えています。私も頷きました。だって、その部屋には扉のひとつもなく、入れる処と言えば子供一人が辛うじて通れる程の穴が一つだけだったのですから。
でも、その時の幼い私達には分かりませんでした。フィルボルグが、どうやって生まれるのかを」
“ 修術士になった今だからこそ分かることですが ”と、少女は唇を噛み締めて大きく足を殴った。
「フィルボルグは闇のクバールの結晶、その命は勿論、躯も闇の集まるところに作られるのです。それを私達は、知らなかったのです……
突然、部屋に響き渡った咆哮に、弾かれたように其方を見ました。
そこには、黒く血走った眼で此方を見定める黒緑の化け物が居たのです。私は声に成らない悲鳴を上げました。恐怖、それが私の体を金縛りにしたのだと思います。男の子はそんな私を背に庇い、身の丈に合わない剣を抜きました。ゆっくりと迫り来る、フィルボルグに向かって。
一歩、一歩と後退る度に、次第に増えていくフィルボルグ。
ついに私達が壁にぶつかった時には、フィルボルグは数え切れぬ程の数になっていました。口の端から涎を溢れさせながら唸る、黒緑の化け物達。何かを窺っているかのように私達を、いえ、男の子を見ていました。彼が握り締めている剣が、唯一の武器が怖かったんだと思います。でも、武器だと言っても子供が扱う力なんて、知れてたんです。やがてフィルボルグ達は少しづつ、少しづつ近付いて来て……“ もう駄目だ ”と死を覚悟して目を瞑った私の頭を、ふいに男の子が叩いたんです。我に返って顔を上げた私に、“ 逃げろ ”、そう、言いました。でも、“ 嫌だ ”と首を振った私に男の子は笑いました。“ お互い無事だったら、また、ここに集合ってことだ ”って。それに何かを言おうとしたより早く、私は男の子に突き飛ばされて……
転がり滑るように穴から出された私の視界に、爪を振り上げたフィルボルグ達が一斉に男の子に襲いかかる光景が映りました。私は慌てて起き上がり再び穴へと向かいましたが、大きく城壁が揺らいだかと思うや瓦礫が崩れて……、
でも、瞬く間に塞がってしまった穴の向こうから最後に響いたんです。確かに、私には聞こえたんです。男の子の声が。
“ 約束だぞ! ”って――――― 」
暫しの静寂。話している間も絶え間なく自らの足を叩きつけていた拳が、とん、と静かに少女の足の上へと落ちた。
「………思い出したくなくて、ずっと逃げていました………。もしかして彼はもう生きていないんじゃないかって……だって、彼は私を助けてくれたせいで……」
不意に優しく吹いた風に少女は瞼をきつく閉じると、大きく震え出した足を潰さんばかりに握りしめ、
「いえ、違う。違います……。私を助けてくれたからじゃない……、私が、私が―――――私が助けなかったせいで彼は殺されたんです」
思わぬ告白に男は黙したまま少女を凝視する。その視界に、おもむろに握り拳を振り上げるや自身の足へ殴り下ろすログリアが映った。一発、二発、三発、止まぬ力の限りの自虐の狂気に、男は慌てて少女の両腕を抑えた。まるで呼吸の仕方さえも忘れたかのように、肩で激しく息を切る少女。痛々しく内出血した足部の麻布は真っ赤に染まっている。
「……う、動かなくなるんですよ」
掠れながら漏れた声。男は少女の視線の先へと目を下す。寒いのか、いや、そうではあるまい。少女の細い二の足が痙攣するように異常に震えている。それを解放された腕で擦り始めたログリアは、小さく笑い声を漏らした。酷く乾いた、酷く情けの尽きた、酷く憎しみの籠る笑い声。
「あの眼を、あの血のような眼を思い出すだけで! 足が、足が岩か何かのようになってしまって、動かなくなるんです……今でも!
助けなきゃって、助けを呼ばなきゃって思ったのに……、この足は動いてくれなかった……」
“ こんな足、こんな足 ”と、再び振り上げた拳を、また男が掴み止めた。こんな足、
「いらないとでも言うのか」
繋げられた言葉に少女は動きを止める。それを確かめてから、男は静かにログリアの目線へと腰を落とした。
「今日、君を此処へ連れてきたのは君の足じゃないのか。君の気持に応えて、動かななくなることを承知で着いてきてくれたのは、君が憎んでいる“ その足 ”じゃないのかね」
その言葉に、ログリアは唇を噛みしめる。そうだとしても、今さら遅いのだと零れ落ちる憎しみ。あの時、あの場所で動いてくれなければ意味がなかったのだと、少女は弱々しく足を叩いて嗚咽した。落ちこぼれ、落ちこぼれ、そればかりが脳に反響しているのだろう、小さな体は更に小さく丸まる。そんな少女を暫く見つめていた男だったが、やがて何処か見限ったかのように冷たく溜め息をついた。
「……事情は分かった。やはり明日は帰りなさい」
「……嫌です」
尚も頑なな返事に、男が荒らいだ声を出そうとした時である。少女が目を上げた。それに男は言葉をのむ。今だ震えながらも、ログリアの双眼は揺らいでいなかった。
「これが、私にとっての最初で……最後なんです。会いに行かなくちゃいけないんです。そのために修術師になったのですから、そのために今行かなければ、きっと私は、もう二度と此処へはこれない気がします。……もう、二度……二度と。
だから行かなくちゃいけないんです。
あの子がどうなったのか………私は知らなくちゃ。あの子のためにも、私の為にも。
行かなくちゃ。とても遅くなってしまったけど、もう遅いかもしれないけど、どんな姿になっていてもあの子に会いに―――――“ 約束 ”を果たしに」
曇りの無い眼。純粋な瞳は、揺らぐ事無く只々真っ直ぐと男の眼を見つめ続ける。震える足を握りしめ、ただ真っ直ぐと。それに、やがて男は長く溜め息を吐いた。
「明日、最上階に居着く闇の巨根を一掃する」
ふいな言葉。それに“ ぽかん ”とするログリアに男は首を傾げて見せて、
「来るか?」
それは、つまり。少女は一瞬の思考の後、その意味を解して慌てて首を縦に振った。一気に口角の緩んだ少女に、“ やれやれ ”と言わんばかりに男は目を細め、
「明朝、日の出と共に駆け上がる。少しでも休むといい」
と、軽く肩を叩き、そのまま床へと座り込んだ男は、腰に携えた剣を抱えるように瞼を閉じて見せた。その様子に、ようやく少女は痛みを思い出したかのように顔を歪めると、静かに足を擦りながら男に倣うよう床へと体を横たえる。
夜のせいであろうか、“ ひやり ”と冷たい床は、しかし何処からともなく吹いてくる暖かい風に和らげられ静かな寝息を紡ぐのであった。