「行きます」
ログリアの声に続き、“ こーん、こーん ”と、杖の底が床へと伸びた音を立てた。
それに何かを始めようとしていると気付いたのであろう、ラディは襲い来る閃光を薙ぎ払いながらも、援護するよ、とログリアへ視線を流した。一定の間隔で杖底を鳴らしながらログリアは小さく頷くと、ラディと男を交互に見やり、
「“ 彼 ”の気を私から逸らすように接近して頂けますか? 間近まで行ったら左右へ別れて、杖の一鳴りで離れて下さい」
先程までの少女と同一人物とは思えぬ凛とした声。その眼は臆する事なく、もはや“ 迷う ”事なく闇の深奥一点を見据えている。それにラディと男は“ にやり ”と笑うや、闇の中心へと一直線に地を蹴った。襲い来る閃光を弾き、薙ぎ払いながら、止まる事無く突き進む男とラディ。その直ぐ後ろを、杖で床を弾きながらログリアが走り追う。
闇に響き始めた人の言葉らしからぬ唱え。紡いでいるのは少女だ。おそらく精霊を喚び出す為の呪文であろう。その詠唱に重なりながら、飛び乱れる閃光の嵐を押し流す金属音は次第に亡霊へと近付いていく。目の前へと大きく振り下ろされた一刀を合図に、左右へ飛んだ男とラディに一瞬遅れて重い刃が床へと減り込んだ。歪に砕けて弾け飛ぶ瓦礫を目の端に、しかし刃は直ぐ様、亡霊を挟み込むように対に構えた二人へと軌道を移す。二人掛かりをも物ともせぬ閃光の雪崩に、男とラディは軋む片手に顔を歪めながらも一歩も退かぬ。
その周りを、同じく足を止める事無く杖を弾き鳴らしながら、ログリアはまるで亡霊を囲むように“ ぐるり ”と円の軌跡を描いていく。一廻り、二廻り、三廻り、四廻り、一気に描き走った少女は亡霊の正面へ戻り着くや前触れも無く、ひとつ、“ こーーーん ”と、音高く杖底を鳴らした。
それに反射的に左右後ろへ大きく飛び退いた男とラディを追った一刀が、突然、“ ぴたり ”と止まったのだ。何が起こったというのか。思わず構えた刃を緩ませ、男とラディは亡霊を凝視する。そして、再び“ こーーーん ”と杖底が高鳴ると、今度は亡霊の躯が激しく揺らめき出したではないか。まるで緋黒い炎が踊るように、その躯を取り巻いていた人魂が次々と我先に闇へと逃げ出すように中心から飛び出しては、己だけ逃がすまいと他の人魂に引き戻され、また、人魂が飛び出しては引き戻され、その度に耳を劈く悍ましい悲鳴を上げる。
ラディは思わず耳を塞いだ。いや、これ程までに絶望を掻き立てられる悲鳴に、何故塞がずにいられよう。
やがて、幾重もの人魂が蠢きながら、次第に絡まった糸が解けるように露わになった中心には闇の塊が―――――闇が形を成したであろう髑髏の悶え苦しむ姿があった。それをログリアは真っ直ぐと見据えたまま杖を逆さ返すや、再び杖頭を“ こーーーん ”と、高鳴らせた、
その途端、
反響する杖の音に呼ばれたかのように、亡霊の廻りに描いたであろう軌跡を緑青の光が迸った。その後を追うように、更にその外周を赤褐色の光が駆け巡る。闇に響き渡る幾多もの悲鳴。四色の光に数え切れぬ人魂が、亡霊が、苦悶に発狂したかの如く身を捩らせ始める。逃がすまいとその身に留めた人魂は、骨の隙間や目の空洞、羅列した歯の隙間、果てはラディに空けられた頭の風穴から、“ どろり ”と溶け出しては、音も無く、迸り続ける光へと誘われるように消えていく。
死と腐敗を漂わせる不気味な闇の光景と、それを囲む神々しい四色の光―――――なんとも言えぬ異様な光景である。
「おおう………」
と洩らしてラディは咄嗟に口を塞いだ。込み上げかけた嘔吐物を堪えたのであろう。おそらくラディにしてみれば、俄然前者が優っているのかもしれぬ。そんなラディを目の端に、ログリアが再び杖頭を音高く床へと鳴らすと、四焔が刃へと、苦悶の亡霊が握り締めている“ 聖剣 ”へと一斉に燃え移った。
それに拘束を解かれたかのように、突然、狂乱に暴れ出す亡霊。再び乱れ飛んで来た刃を男は反射的に受け止めたが、なんという力であろうか、そのまま男の剣ごと振り切られたのである。凄まじい力、そう言うしかあるまい。投げ飛ばされるように壁へと叩き付けられた男、それに気を取られたラディの目の前に刃が映る。咄嗟に六爪を盾にするも、力任せに振り上げられた一刀に、同じくラディまでもが天井へと叩き付けられたのだ。
床へと激突する二つの鈍い音、暗闇に反響する呻き声。
しかし亡霊は尚も見境無く闇を、いや、まるで聖剣に纏わり付く焔を振り払わんとするかのように、狂刃を振るい続けている。男は込み上げる血反吐を吐きながらも、言う事を聞かぬ上半身を右腕で無理矢理押し上げた。だが―――――ラディは動かぬ儘。辛うじて息はしているようだが、意識の糸を切られ、このままでは長くは持つまい。
それに男は愕然と目を剥くしかなかった。己の考えの甘さに気付いたのだ。
七年もの間、聖剣は精霊の力も届かなぬ闇のなか持ち主を護り続けていたが、同じ年月、亡霊もまた、闇の力漂うこの場所で聖剣の力に抗いながらも、おそらく無念の死を遂げさ迷う魂を吸収し続けていたのである。例え聖剣の力が戻ったとて、もはや敵わぬ程に膨れ上がっていたのであろう。力の入らぬ喉を振り絞り、狂刃の正面へと立ち続ける少女に叫ぶ男。
「逃げなさい!」
張り上げた割れんばかりの声に被る様に、ログリアへと刃が振り落ちていく。白くなった男の視界に、まるで時が遅くなったかのように、ゆっくり、ゆっくりと、少女の頭上へと合わさる刃が映った、その時、
響いたのだ。少女の悲鳴ではない、杖の音。そう、杖の音だ。杖の音が闇高く、“ こーーーーーん”と、長い音を立てたのだ。
刹那、稲妻のように迸る白い光。
それは滝を登る龍が如く、後方一直線から杖の軌跡を駆け走るや、ログリアの身体を伝い、その頭上へ紙一重で付いた刃へ、亡霊へと流れたのである。一瞬で動きを固めた亡霊の廻りに、亡霊を囲む軌跡に更に沸き上がった白い光は、余す所無く漆黒を照らし出した。亡霊は途切れ途切れに悲鳴を上げる。動かぬ躯に、相入れぬであろう眩い白い光に。
見よ、必死に光から逃れようと悶える悍ましい躯は、その輪郭がまるで灰のように崩れ始めたではないか。それに怯える様に悲鳴を張り上げながらも、亡霊は己が腕など千切れれば千切れろとばかりに、無理矢理と固められた躯を動かし、ついには尚も抗うように刃を狂い振るう。己を取り囲む白い光に、己の躯を駆け巡る白い光に、手にする聖剣に流れ込む白い光に、その光を呼んだであろう白い焔をその身に揺らめかすログリアに向かって。
しかし、再び少女の頭上へと縦一線に振り落ちた刃は“ ぴたり ”と止まった。どうしたことか、亡霊はあらん限りの力で振り下ろしたにも関わらず、ログリアの身体一寸手前で、まるで見えぬ壁へと当たったかの様に、いや、刃が拒む様に先へは動かぬではないか。それに亡霊は怒りに満ちた咆哮を響かせるや、再び四方八方から少女へと狂刃を繰り出す。だが、その全てがやはりログリアの身体紙一重で“ ぴたり ”と止まり、斬れぬ怒りにか、亡霊は殊更に刃を乱れさせる。
どういうことであろう。その光景に、只々唖然とするばかりの男。
激流が如く迸る白い光が狂刃を弾いているのであろうか。いや、違う、 これは“ 何か ”に押さえ付けられているのではあるまいか。男の視界に、再びログリアの首手前で止まった刃が映る。その狂刃を亡霊は尚も振り被ろうとするも―――――動かぬ。今度は、その刃が宙に固まったまま、全く動かなくなったのだ。
亡霊は怒りと困惑に、けたたましい咆哮を響かせた。動かぬのだ、聖剣が。押しても引いても動かぬ刃に、亡霊は狂わんばかりに頭を震わせる。それを依然、微動だもせず見据えるログリアの杖から噴き出た白い焔に、発狂したかのように更に悍ましい悲鳴にも似た咆哮を張り上げる亡霊。まるで危機を感じた狼のように、漆黒の顎関節を外れんばかりに開口して威嚇する亡霊の腕が、ふと、動かぬ筈の聖剣が、ゆっくりと動き出した。己の意思に反して勝手に動き出した刃に、亡霊は漆黒に淀んだ眼を見開く。ゆっくりと、しかし確実に亡霊へと、“ 己の躯 ”へと近付いてくる刃。亡霊は動く片手をも使い、言う事を聞かぬ刃握り締める腕を押し止めるも、近付いてくる聖剣を止める事が出来ぬ。
これは、この聖剣を動かす “ 者 ” は、もしや。
闇に悲鳴が、まるで助けを求めるかのような耳を劈く悍ましい悲鳴が響いたのと同時に、その断末魔が己の刃で縦一線に斬られた。
幾重もの悲鳴を上げながら、疎らに飛び散る黒い人魂達。その中から憎悪滾らせ飛び出してきたのは一際巨大な漆黒の髑髏であった。口を裂けんばかりに開けた漆黒の頭蓋骨は、道連れに喰い殺さんとばかりにログリアへと襲いかかった。
一瞬の事、髑髏の口中へと消えた少女。“ 喰われた ”のだ。
恐ろしい静寂が漂う。何処かで転がり落ちた瓦礫の音、それに思い出したかのように悲鳴が響き渡った。
―――――――――“ 亡霊の悲鳴 ” が。
断末魔を張り上げて再び口を開けたその中には、闇の喉元奥深くに白い焔を突き刺したログリアがいた。
音も無く、亡霊は焔から波紋が広がるように風化していく。そして、形を失くした漆黒の砂は、やがて、立ち上る白い円環へと消えていったのであった。